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〜Prologue〜
Akiosan storyを御覧になってる皆様、本当にありがとうございます。
今後は囲碁にまつわる話はほとんどなくなります、囲碁ブログでありながら申し訳ありません
しかしながらakiosanの人生は囲碁から離れた時期が長く、私、弟の子供達から見ると、
この時期がほとんどなのです、又、私に関しての話が多くなってしまいますが、御了承下さい。
時代は一気に進み20世紀末、その間の話しを綴っていきます、お付き合い下さい。
akiosanは元々酒豪である、若い時は二日程でだるまウイスキーを空にしていた。
若く体が健常な頃は、アルコールにも強く酒量が多くても言動の乱れは少なかったが、
茨城に引っ越してきた四十半ば辺りからは、酒量は同じだが泥酔する様になった。
外面が良かったので、泥酔しても他人には陽気だったが、身内には酷かった。
どなり絡んでくる、母(テル子)は暴力を受けたこともあった、息子達への口癖はいつも最後は
「何だ!文句があるなら出てけ」 だった。
それでもまだ当時akiosanは三交代勤務だったので、仕事でいない時間帯に、
友達を家に招いたり出来たので、嫌ではあったがそれなりに楽しい学生生活を満喫出来た。
しかし、家は出たかった、akiosanの顔を見るのが嫌だった、進学もしたかったので新聞奨学生に
弟も同じ道を辿った。
私が大学二年の時、akiosanは工場内で転び肋骨を6本折る大怪我をした。
息子達は二人とも新聞奨学生、家にはakiosanと母だけだった。
その間、母はakiosanの泥酔の対応を一人でしてきた、辛かったそうだ、
別れたかったそうだが、母は人に迷惑を掛けるのを嫌った、
離婚すれば、子供達、兄弟に迷惑が掛かる、それに兄弟は皆茨城から遠い所に住んでいる、
(子供達にほとんど会えなくなる・・・)だから一人でずっと耐えてきたのだ・・・
「お母さん、俺そっち戻って働くよ、大変だろ」
「でもなおさん、大学が・・・」
「いいんだ、大学なんて皆遊びに来てる様なもんだよ、
それに俺の大学じゃ大したとこ就職出来んだろうし、親父の顔は見たくないけどね、ハハハ」
「ゴメンネ、なおさんの人生を・・・」
母は大粒の涙をボロボロこぼした・・・
とは言っても田舎の就職はなかなか見つからなかった、
結局、境町より大分離れた埼玉県大利根町の印刷工場に就職、
隣の古河市のアパートに住む事になった。
それでも、何かあったら直ぐに実家に帰れる距離でもあるし、母は喜んでくれた。
それから数年、20世紀も終わりを告げようとしていた・・・
akiosanは茨城に来て15年・・・
15年の日常は仕事がない時はパチンコかなじみの飲み屋に行く、
小遣いがないと家で酒飲んで寝るか、絡むかの繰り返しであった。
囲碁はテレビでしか見なくなっていた、ビデオに録画して溜め込んでいたから
本当は打ちたかっただろう・・・
ちょうどその頃、私は職場の嘱託のおじさん(二段くらい)と碁を打つようになった、
実は小学二年の頃akiosanは私に碁を中部総本部まで習わせに行かしたのだが
akiosanの気性の激しさか、怒るだけだったのが嫌で2ヶ月で辞めてしまった
だから私はルールぐらいは知っていた、確か7級だったと記憶している。
私も碁を打つ様になり、ちょくちょく実家に帰ったのでakiosanはとても喜んだ
井目置いても全然相手にならず、弱かっただろうが、毎日電話をかけて来て
「次はいつ来るんだ」
酔っ払いながらの時が多かったが、その声はとても楽しそうであった
akiosanと私の距離が縮まったのだ、
時は平成10年(1998年)も終わろうとしていた・・・
Akiosan storyを御覧になってる皆様、本当にありがとうございます。
今後は囲碁にまつわる話はほとんどなくなります、囲碁ブログでありながら申し訳ありません
しかしながらakiosanの人生は囲碁から離れた時期が長く、私、弟の子供達から見ると、
この時期がほとんどなのです、又、私に関しての話が多くなってしまいますが、御了承下さい。
時代は一気に進み20世紀末、その間の話しを綴っていきます、お付き合い下さい。
akiosanは元々酒豪である、若い時は二日程でだるまウイスキーを空にしていた。
若く体が健常な頃は、アルコールにも強く酒量が多くても言動の乱れは少なかったが、
茨城に引っ越してきた四十半ば辺りからは、酒量は同じだが泥酔する様になった。
外面が良かったので、泥酔しても他人には陽気だったが、身内には酷かった。
どなり絡んでくる、母(テル子)は暴力を受けたこともあった、息子達への口癖はいつも最後は
「何だ!文句があるなら出てけ」 だった。
それでもまだ当時akiosanは三交代勤務だったので、仕事でいない時間帯に、
友達を家に招いたり出来たので、嫌ではあったがそれなりに楽しい学生生活を満喫出来た。
しかし、家は出たかった、akiosanの顔を見るのが嫌だった、進学もしたかったので新聞奨学生に
弟も同じ道を辿った。
私が大学二年の時、akiosanは工場内で転び肋骨を6本折る大怪我をした。
息子達は二人とも新聞奨学生、家にはakiosanと母だけだった。
その間、母はakiosanの泥酔の対応を一人でしてきた、辛かったそうだ、
別れたかったそうだが、母は人に迷惑を掛けるのを嫌った、
離婚すれば、子供達、兄弟に迷惑が掛かる、それに兄弟は皆茨城から遠い所に住んでいる、
(子供達にほとんど会えなくなる・・・)だから一人でずっと耐えてきたのだ・・・
「お母さん、俺そっち戻って働くよ、大変だろ」
「でもなおさん、大学が・・・」
「いいんだ、大学なんて皆遊びに来てる様なもんだよ、
それに俺の大学じゃ大したとこ就職出来んだろうし、親父の顔は見たくないけどね、ハハハ」
「ゴメンネ、なおさんの人生を・・・」
母は大粒の涙をボロボロこぼした・・・
とは言っても田舎の就職はなかなか見つからなかった、
結局、境町より大分離れた埼玉県大利根町の印刷工場に就職、
隣の古河市のアパートに住む事になった。
それでも、何かあったら直ぐに実家に帰れる距離でもあるし、母は喜んでくれた。
それから数年、20世紀も終わりを告げようとしていた・・・
akiosanは茨城に来て15年・・・
15年の日常は仕事がない時はパチンコかなじみの飲み屋に行く、
小遣いがないと家で酒飲んで寝るか、絡むかの繰り返しであった。
囲碁はテレビでしか見なくなっていた、ビデオに録画して溜め込んでいたから
本当は打ちたかっただろう・・・
ちょうどその頃、私は職場の嘱託のおじさん(二段くらい)と碁を打つようになった、
実は小学二年の頃akiosanは私に碁を中部総本部まで習わせに行かしたのだが
akiosanの気性の激しさか、怒るだけだったのが嫌で2ヶ月で辞めてしまった
だから私はルールぐらいは知っていた、確か7級だったと記憶している。
私も碁を打つ様になり、ちょくちょく実家に帰ったのでakiosanはとても喜んだ
井目置いても全然相手にならず、弱かっただろうが、毎日電話をかけて来て
「次はいつ来るんだ」
酔っ払いながらの時が多かったが、その声はとても楽しそうであった
akiosanと私の距離が縮まったのだ、
時は平成10年(1998年)も終わろうとしていた・・・
2008.09.21
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