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akiosanのアルコール依存と横暴さに耐えかね、逃げる様に千葉に行った母、
しかし、母はここで平穏で暮らすには時間が掛かった。
まず弟は二世帯で分譲の建売住宅に暮らしていたが、向こうの両親との付き合いは途絶していた。
義父がアルコール依存症だった為であり、トラブルが多かったからではあるが、
お互いの生活の隔絶ぶりに、母は戸惑っていた、同じ住居にいながら顔を合わす事は皆無だった。
建売住宅であまり広くない居住区を弟は改築しまくっていた、2階にキッチンを設け、
螺旋階段を設置し2階に小さな玄関を設け、1階に住む両親に会う事の無い様していた。
その2階に更に一部屋設けたのである、そこに母は弟夫婦と両親の板ばさみになっていた。
母は気遣い屋であったので、先方の両親に気遣った、向こうの両親は母より少し年長だったが、
母は優しく人の話を聞くので、お互い意気が合うようになった、両親と話が進むにつれ
弟の厳格さが弟夫婦と両親を阻害していると気づき始めた。
向こうの両親は父親が大工だった事もあり、夫婦で年金8万程しかないが、
その金でやりくり出来ないと怒った、義父は糖尿病で病院にも行かねばいけない、
残る生活費はたかがしれている、そのわずかな残金で夫婦でたまにパチンコに行くのが楽しみ
だったそうだが、弟はそれを知ると激怒したそうである。
確かに生活費も困るのにギャンブルなんてと思うが、何の余暇もなく生きろとでも言うのだろうか・・・
弟は母にも厳格に接した、
「自分の生活費は自分で稼いでくれ」   
弟の口グセだったという、又、夕食はバラバラだと面倒だからと言うので一緒の時間に取らされた、
しかし、弟夫婦は共働きであったがフレックスタイムで帰りは遅い、夕食が22時過ぎもざらである。
母は惣菜の製造工場や清掃業を転々としたがどれも朝早かった。
安い時給でフルタイムパートであるのに、夜遅くまで起きていなくてはいけない。
半年も持たずに体を壊した、私の説得を聞かなかったのを後悔していた。

「お母さん、もういいそんなふざけた所出て俺たちと住もう、ヨシアキに電話代わってくれ!!」

「なおさん、大丈夫お母さんここを出るから、引越しと家財品買うお金はくれるみたいだから・・・」

「当たり前だ!全額返してもらえ、とにかく電話代わってくれ!!!」

「兄弟でいがみ合うのは止めて、お母さんは大丈夫だから落ち着いたら連絡するから来て」

母はakiosanと分けた貯蓄のほとんどを失い、弟の家を出た、次の住まいは結局職場に近く
弟の住む千葉県八千代市にある、公団米本団地に移り住んだ。
私はこれ以降、しばらく弟とは縁を切っていた、話などしたくもなかった。
母はakiosan同様学歴などない、年も相当なので職など限られたものしかなかったが、
母はこの米本団地をこよなく愛した、又仕事にも生きがいを感じていた、
市内の私立八千代松陰高校の清掃員の仕事である。
時給は760円と安く激務ではあったが、校長や先生に信頼され生徒からは

「おばちゃん、おはよう」 明るく挨拶されるのがとてもうれしかったと言う。
月収13万弱、家賃で37000円、社会保険料やら何やらで生活は苦しいはずであったが、
それでも私の仕送りを拒み続けた、私の給料を心配していたのと、
私の説得を押し切って千葉に行った事への後ろめたさもあったのだろう、
弟は母から借りた残額を月々1万で仕送りしていた。

「何だその額は!30年近く掛けて返すつもりか、ふざけるな、俺がもう少し送るから」

「心配しなくて大丈夫、楽しくやってるから、フフ毎日充実してるわよ」

母は2ヶ月に1回くらい土曜日仕事が午前中で終わった後、久喜の私達のマンションに遊びに来た、
必ず上野駅のらぽっぽのポテトアップルパイを手土産に持ってくる、
ユウコの手料理が食べたいと言い、手料理を食べながらビールを飲むのを楽しみにしていた。

私達もゴールデンウイークと年末は必ず泊まりで遊びに行った、家財道具もほとんどない、
今時の大学生の一人暮らしの方が全然いいだろうか、それでも明るく楽しそうであった。

続く・・・











2008.10.30 Comment:0 | TrackBack:0
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